「殺すぞ」という言葉の裏
最近の悲しい親子間の殺人事件のニュースを見ていて、ふと、自分の昔のことを思い出しました。
ニュースとは、子どもから「殺すぞ」という言葉や暴力などを振るわれ、自分達の命の危険を感じての殺害だったとニュースで見ました。
とても辛くやるせない事件です。
私は昔、家族に「殺す」という言葉を使っていた人間です。
殺すという表現は究極です。
あらゆるコミュニケーションの努力を放棄し、意思の疎通がうまくいかない相手を短絡的に拒絶するような言葉に思います。
私はもう長い間、どんなに感情的になっても他人に対して死を望むような言葉は使っていません。この先、使うこともありません。
適切なコミュニケーションを学び、心理療法を受け、今なお他人と意思の疎通ができるように自己訓練を続けているからです。
「殺す」という言葉の代わりに、自分が何を感じて、どうしたいと感じているのか、怒りや悲しみの中でも適切に言葉にできます。
これはどんな状況に陥っている人でも、訓練で身につけることができます。
しかし、勝手に身につくものではないので、学ばなければどうにもならないのです。
病院の薬やお金を援助して改善することは絶対にありえません。
意思の疎通とは、そういう問題ではないのです。
恐らく、私が健全な家庭環境で育てば、ただの発達障害でちょっと生きづらいくらいの人間で済んだと思っています。
しかし、そうではなかったので、10代の頃から境界性パーソナリティ障害などの問題を強く抱えてきました。
私は愛や感謝といった人として当たり前の感覚が分かりませんでした。
親から愛された感覚がない私は愛情に飢えているのに、人から愛されると強い拒絶反応を感じました。
なんてめんどうな人間だ。
価値観の違う人間は全て敵で、すぐに感情的になり、短絡的な言葉や行動が多かったです。
他人に依存しやすく、アルコールや薬にも依存しやすく、何かにすがりついていないと自我を保たない状況でした。
何度も自殺未遂を繰り返し、沢山の人に迷惑をかけてきました。
過去の私の「殺すぞ」という言葉の裏には「大好き」「愛して欲しい」という悲鳴のような感情が隠れていました。
そんなことは私は全く自覚できないですし、通常、「殺すぞ」という言葉を耳にしたら気持ちの良いものではありません。
しかし、私の心の奥の悲鳴を聴き取ってくれた人がいました。
前の旦那です。
元旦那に「殺すぞ」と言った時、笑いながら「俺のことが大好きなんだな」と言われた瞬間を今でもハッキリと覚えています。
天と地がひっくり返るほどの衝撃で、人生で味わったことのない温かい感情を感じたのをよく覚えています。
人と心と心が初めて通じた瞬間でした。
しかし、深刻なパーソナリティ障害はどうにもならず、当時は適切な治療法も全く見つからず、私の命の危険があったため離婚という結果になりました。
行き場のない痛烈な感情が、自分を死へ追いやろうとしてしまっていました。人によっては相手に危害を加えるという形になるかもしれません。
とにかく、心理学を学ばず、私のことを理解し切った人は元旦那だけです。
私は元旦那に刃物を突き立てたこともあります。
それでもひたすら愛情を注いでくれた結果、愛情を受け止められない私は命を経つしか選択肢が無くなってしまったのです。
過去の私のような人間は、それくらい壊滅的な心理状態で生きています。
これは克服した経験者や専門に学んだ人にしか理解できないことです。
だから、家族といえども知識がなくては問題を抱える人に対処するのは無理で当たり前なのです。
パーソナリティ障害とは深刻なものです。
そして、今の日本の環境ではパーソナリティ障害の人が増え続けるかもしれません。
今、私は障害者ながら笑顔に囲まれ平和に暮らしています。
今の夫とは5年間喧嘩したこともなく、常にコミュニケーションを大切にしています。
親とも良好な関係になりました。
つまり、適切なサポート、改善できる場さえあれば必ず良くなっていくのです。
一番重要なのは、「殺すぞ」と口にする本人が自分の問題を自覚し、改善したいと強く望めるかどうかです。
本人が望んでもいないのに勝手に「お前はおかしいから治療しろ」とか言ったら、関係性によっては逆効果になる場合があります。
私の場合は元旦那との離婚の時に「何があっても生きのびる」と決めたことが、人格が成長していく1番のキッカケになりました。
私の自殺や自傷行為を防ぐための離婚であり、好きだからこそ一緒にいられないという状況でした。
離婚から5年くらい経って、私が心理カウンセラーの資格を取ったりして大きく成長した後、元旦那と久々に会いました。
私は泣きながら「心から愛していた」と、その時初めて本当の気持ちを言えました。
元旦那が「初めて言ってくれた」と、嬉しそうだったのを記憶しています。
私は「殺すぞ」じゃなくて、愛している、愛してほしいと言いたかっただけなのです。それが言えるようになったのは、とても幸せなことです。
私に生まれて初めて温かい心を与えてくれた元旦那のことは一生忘れることはありません。
意思の疎通とは大変奥の深い課題です。
うわべの会話や一方的な押し付けは、意思の疎通でもなんでもありません。
どんなに上手に話せても心と心が通わなければ、意思の疎通にはなりません。
家族間こそ、意思の疎通は大切であり、場合によっては家族だからこそ凄く難しいものです。
意思の疎通は誰でもできることですが、自力で習得できない場合の方が遥かに多いのです。
コミュニケーションは教わる必要はないと思っている人が多いくらいです。そんなことはありません。
より良い心の関係性を築ける社会になっていって欲しいと強く願っています。